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著作権について、宣言

【目次】
著作権について、宣言
第1回 : ヘンリー・ダーガーのインセンティブ
第2回 : 隠れミッキーを見つけよう!
第3回 : ありがとう、ショーン・パーカー
第4回:家入レオより売れるために何をするべきか
第5回:孤児と貧乏な芸術家VS大企業〜HINKON WARS〜
第6回:macaroomの未来学会議(ちょっと休憩)
第7回:テイラー・スウィフトよ、ややこしいことするなかれ。
第8回:アイドルと出来レース、そしてドナルド・トランプよ
第9回:アムウェイ・ビジネスとやさしき心よ
第10回 : 鈴木福くんさようなら!〜著作権クーデターの最期〜ぼくは普段音楽をつくったり、文章を書いたり、デザインしたりして、それをお金にかえることがあるので、創作者、芸術家、ミュージシャン、作家、などと自称することができるし、たいして人のためになっていない分野で生きている。

しかし、ぼくのような生き方をしていなくても、普通に会社で働いていたりしていても、著作権というものと触れ合う機会はすごく多いだろうと思う。
ぼくも、以前会社ではたらいていた頃、
「これは著作権にひっかかるからダメです。社会人として基本中の基本ですよ?」
といって怒られたことが何度かある。
一方で、ぼくらは、普通に生活をしていたら、創作者、芸術家、ミュージシャンたちに、間接的にお金を払っている。
喫茶店で払うコーヒー代の一部は、その店のBGMで流れているオスカー・ピーターソン(彼は死んだが)に払われているし、カラオケで『ボヘミアン・ラプソディ』を歌えばフレディー・マーキュリー(彼も死んだ)にいくらか払っていることになる。
そして、多くの人は知っている。
著作権にかかわるようなことは、個人的に楽しむ範囲では許されているけど、それを超える場合は、著作者から許可をとったり、もしくはお金を払ったりしなければならない、と。
そして多くの人は知っている、
普通に生活をしていて「完全に」著作権を侵害せずに生きることがとても困難だということを。
ぼくらは普段は意識しないような意外なところでも、著作者にお金を払っている。
たとえば、CD-R
CD-Rには2種類あって、「音楽用」と書かれているものと、「データ用」と書かれているものだ。ツタヤで借りてきたCDを「個人的に」楽しむためにCD-Rに焼く場合は、「音楽用CD-R」を買うのだ。
音楽用CD-Rは、データ用CD−Rよりも少し値段が高く設定されている。
なぜ少し値段が高いのかというと、「著作者にお金を支払っている」からだ。(私的録音補償金制度)
つまり、ぼくらは音楽用CD-Rを買った時点で、秋元康にいくらかお金を払っている、ということになる。たとえそれが私的な利用だとしても。
前置きが長くなったが、ぼくは基本的に著作権そのものに懐疑的で、
それだけなら良いのだが、ぼくのやってるmacaroomという音楽ユニットが7月に2ndアルバムを発売するので、その前にここんとこを明確にしたいと思った。
なので、著作権は実際どうなの、ということを改めて考えたい、ということでこのブログを書くことにした。

思想として

ぼくは著作権がそもそも「架空の権利」なんじゃないかと疑っている。
著作権は、創作物には「オリジナリティ」があって、それは誰からのパクリでもない、そういうものなんだという大前提がある。
そして、創作物には「作者」というものが存在する、ということになっている。
以上の二つは著作権法第2条では「創作的に表現したもの」「著作者」となっている。
 

著作物 思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。(著作権法第2条より)

 
しかし、芸術に携わるものならおよそ誰でも、「創作的に表現したもの」が何か、ということに行き詰まり、ドツボにはまったことがあるだろう。
お店で買った便器にサインをしただけの、マルセル・デュシャン『泉』は創作的に表現されたものか、
戦場カメラマン、ロバート・キャパが戦場で倒れる兵士を写真に撮った名作『崩れ落ちる兵士』は、創作的に表現されたもの(つまりヤラセ)か、もしくはただの「事実」なのか
他人の文章を切り刻んでつなぎ合わせただけのウィリアム・バロウズ『ソフトマシーン』は、創作的に表現されたものか、
曲をつなぎ合わせるDJは創作者といえるだろうか、
聖書が神の言葉なら創作物ではないだろうし、だれかのでっち上げなら創作物だろうか、
クソみたいなアイドル気取りのガキが作ったしょうもないメロディを、アレンジャーの天才的なアレンジ力で楽曲に仕上げているのは、どっちが創作的だろうか。
創作をしたことがある人なら誰でも、自分たった一人で体の内側から作品が湧き上がってくることなどないことを知っている。
無限にある影響関係の中で、創作者は常に何かをパクリ、何かを引用し、何かを模倣し、何かにインスパイアされている。
ジュリア・クリステヴァは、

いかなるテクストもさまざまな引用のモザイクとして形成され、テクストはすべてもうひとつのテクストの吸収と変形になっていく

と書いているけど、これが本当なら、真に創作的といえるものはあまり存在しないし、
存在するとすればそれは聖書やクルアーンのような、「決して何からの引用でもない絶対的にオリジナルな作品」でしかないだろう。
この作品がヤラセであった場合、この創作的な作品には著作権がある。しかしこれが事実であった場合には、著作権はないんじゃないだろうか。

技術的な問題点

著作権は、そもそも技術的な問題による解決策として生まれたものだった。
グーテンベルクの印刷機の登場によって、印刷物の普及が技術的に容易になったために、著者を保護するという発想が生まれたのだ。
そして、今日では、さらなる技術の発展によって、著作権の影響力は弱まりつつある。
絵画、音楽、文学、映画などのほとんどの創作物がその鑑賞の拠点をデジタルな場所に移行しつつある。
デジタルな世界では、作品をほとんど完璧に、簡単に、誰でも、何度でも、複製することができる。
パリのルーブル美術館にあるかけがえのない「たった一点」のモナ・リザを、
世界中の人々が自分の部屋で、キーボードを幾つか操作するだけですぐに見ることができる。
それどころか、フォトショップでリタッチすることもできるし、髭を描くこともできる。
そして世界中にほとんど無限にあるように思われるデジタルな完璧な複製品のすべてに、著作権という制限がかかっていることを、ぼくらは「うっすらと」認識している。

文化的な意識

技術的な進歩と並行して、文化的にも、著作権と切っても切り離せない形で文化も変容していき、それらは法的にグレーでありながら、多くの人に認知されている。
以前からあったものでは、先ほどのウィリアム・バロウズのカットアップ、他人の文章を模倣するパスティーシュ、メタファーとして引用するアリュージョン、絵画では、コラージュの手法がある。
今日はさらにややこしい。
他人の楽曲を利用して曲を作る「サンプリング」は、ヒップホップやクラブ音楽では常識的な手法になっている。
他人の映像を切りはりするマッシュアップもある。
Ustream、ニコニコ生放送で誰もが番組を放送することができ、フェイスブックやブログで誰でもデジタルな出版が無料でできる。
YouTubeの存在はとりわけ、映像というものが巨大なメデイアの特権であった、ということを完全に過去のものにした。
ウィキペディアのように、誰でも参加して作り上げ、永遠に完成することのない辞書も登場したが、ウィキペディアは著作権に対しては「クリエイティヴ・コモンズ」という、パブリック・ドメインに限りなく近い新たな意思表明を普及させることにも貢献している。
 

実際問題、現実はどうか

ここまで考えて、現実に目を向けてみよう。
実際のところ、著作権は必要なのか、無用なのか、もしくは何らかの変化が必要なのか。
著作権は、なんのためにあるか。
著作権の目的は、「保護」と「発展」らしい。
まず著作者の権利(人権にかかわるようなこと)を守り、文化を発展させる、ということ。
創作物によってお金が生まれる図式を作って、芸術および文化を発展させてこうぜ! ということだ。
そして、せっかく作った作品を誰かがパクったりしたら悲しいじゃないか、ということだ。
最初に書いた音楽用CD-Rの話をすると、
ぼくらは、たとえどんな目的だろうと音楽用CD-Rを買っただけで、著作者にお金を払っていることになる。
では、ぼくらは、「誰に」お金を払っているのか。
それは、秋元康に、だ。
音楽用CD-Rに上乗せされる余計なお金のことを、「私的録音補償金」といって、「私的録音補償金管理協会(sarah)」が運営を賄っている。
sarahによると、集まった補償金は、以下のような方法で著作者に分配されるらしい。

補償金は家庭内録音・録画によって権利者が被った不利益を補償するためのものですから、権利者に分配されるのが基本です。したがって、いわゆる共通目的事業に支出される部分を除き、全て、個々の権利者に分配されます。 その権利者への分配も、指定管理団体が定め、文化庁長官に届け出た「分配規程」によって行われます。
その際、補償金の個々の権利者への分配に当たっては、私的使用の実態を完全に把握することが困難であるため、放送やレンタルレコードのサンプリング調査、CDなどの生産実績調査、また、ユーザーの皆さんからのアンケート調査など専門の統計学者の指導による手法などによって、できるだけ精度の高い分配資料を作成し、これらの資料に基づいて、権利者の各団体に適正に分配を行うこととしています。 個々の権利者にはそれぞれ所属する団体を通じて分配されます。また、団体に所属しない権利者への分配については、各団体に分配された中から請求に基づいて支払う措置がとられています。
なお、補償金はすべての権利者に分配されるのではなく、そのうちの一部(2割)は権利者に共通する特別の目的の事業のために使われます。
(私的録音保証金管理協会HPより)

当然の話だが、売れているアーティストにお金がたくさん入ってくる、ということだ。
しかしながら、ぼくのような売れていないアーティストを考えてみよう。
ぼくは最近、100枚ほど音楽用CD-Rを買って、そのすべてにぼくの作った曲を焼いた。
さて、ぼくは100枚分の補償金を払ったのだが、著作者本人であるぼくには、どのような方法で補償金が分配されるのだろう。
答えは、「全く分配されない」ということ。生まれてこのかた、私的録音補償金などというものが口座に振り込まれたことはない。
1、売れているアーティストにはお金がたくさん入り、 
2、それほど売れてないアーティストには全く入らない。
重要なのは、「それほど入らない」のではなく、「全く入らない」ということ。
これは、アーティストの保護という観点からも、文化の発展という観点からも、大きく矛盾している。
「印税」は言葉の並びとは裏腹に、「租税」ではない。
ただ、ぼくはもっと税金のように、
「売れているアーティストには少ない印税が、売れていないアーティストには多い印税が」入ることの方が、文化の発展につながるのではないかと思っている。
ちょうど、大企業ほど税金をがっぽり持っていかれるように。
さて、著作権の現実の問題はいろいろある。
たとえば、本来は事実を述べるだけで、なんら創作的ではないはずのしぜんかが科学論文に著作権の声があがることがある。
科学によって得られた知識は人類共通の財産なので、大いにみんなで共有し、活用しなければならないが、
それに制限をかけるとたちまち科学は発展をやめてしまう。
STAP細胞の事件が全くその通りの結果になったように。

論文に同一の自然科学上の知見が記載されているとしても、自然科学上の知見それ自体は表現ではないから、同じ知見が記載されていることをもって著作権の侵害とすることはできない。また、同じ自然科学上の知見を説明しようとすれば、普通は、説明しようとする内容が同じである以上、その表現も同一であるか、又は似通ったものとなってしまうのであって、内容が同じであるが故に表現が決まってしまうものは、創作性があるということはできない(大阪地方裁判所判決 平成16114

さらに、2011年の大震災で、福島第一原子力発電所の爆発映像を、福島中央テレビが著作権を主張し、
日本テレビ以外の放送局で放送できなかった。
海外ではあらゆるテレビ局で映像が流れていたが、日本では日本テレビだけ。
NHKは遅れて6月に放送したが、それは福島中央テレビに使用料を払い、クレジットもつけて放送、ということだった。
こういうときに、「著作権より人命を!」という声は当然のことなのだが、
そもそもこういった映像に著作権があるわけがない。
もういちど著作権とは何か、を考えてみると、
「著作物 思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。」
上記のどれに該当するのかわからないが、
つまり、「現実の問題」を考えてみたとき、
著作権というものの「理想の姿」ではなく、現実には、
様々な人や団体が好き勝手に架空の権利を主張し、社会全体がなんとなくそれに従っている、ということ。
もし、原発の爆発を福島中央テレビが仕組んだ「創作行為」であり、それを撮影したものだとすれば「著作物」ということになるだろう。
現実の問題を考えると、
著作権が仮に消滅するとしたら、一体誰が困るのか。
困る人は沢山いる。
JASRACや、その他、印税でがっぽりを目論んでいる人たちは困るだろう。
しかし、困るからといって、その権利が正しいかどうかはわからない。
ぼくも一端のアーティストなので、今後、ぼくの曲がカラオケでいくら歌われまくっても金が入ってこないのは、残念だ。
しかし残念だからといってそれが必要な権利かはわからない。
お金が儲からないとなると、芸術は発展しないだろうか?
その程度の芸術など、発展しなくて結構。
モネやゴッホの時代を考えてみよう。
ゴッホは売れなくても絵を描き続けた。
それに、現在のようなデジタルな複製が簡単になって、それが著作権によってすべて保護されていたとして、
ゴッホは報われただろうか。
秋元康のように、適当に歌詞をかいて、ぶくぶく太りながら、勝手にお金がどんどん入ってくる、
この制度は本当に正しいのだろうか?
著作権の目的である保護と発展は、その理想とは裏腹に、
アーティストの格差を広げたのではないか?
文化の発展を妨げているのではないか?
増える徴収料……「ちえのたね」より(http://society-zero.com/chienotane/archives/2609)
そして、こうしたことは、
法律に詳しい専門家が考えることでもあるが、
アーティスト自身が考えなければならない。
多くの先進的な思想を持ったアーティストが、
著作権の話になった途端に黙り込むのだ。
他人のお金のことはいくらでも言うが、自分のお金の話になった途端、黙り込む!
これで良いのだろうか。確かに、お金は欲しいし、際限なく、いくらでも、いつまででも欲しい。
しかし、アーティストは、なんの権利があって、
地方のちいさな喫茶店がBGMで流したりすることに対価を要求しなければならないのか。
なぜ、リスナーがCDを買うのは良いが、無料でYouTubeで聴くことには難色を示さなければならないのか。
こうしたことは、単にJASRACが悪いのではなく、
アーティストがそれに「同意している」ということが大事なのだ。
それぞれのアーティストが、それに対して完全な意思表明をしている。
それは、CDの裏側に、コピーライト表記(©)とともに、明記してあるはずだから。
さて、ぼくがやっているmacaroomという音楽ユニットも、ようやく7月に2ndアルバムが出る。
ここまでかいて、「お前はどうやねん」といわれたらたまったものではない。
もし、CDを買ってくれたら、ぜひCDの裏(バックインレイ)を見て欲しい。
1stアルバムのころにはまだ決断できなかったことが、2ndでは明記してあるので。

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