芸術格差を考える(第5回:孤児と貧乏な芸術家VS大企業〜HINKON WARS〜)

【目次】

第5回:孤児と貧乏な芸術家VS大企業〜HINKON WARS〜

ライブのフライヤー用に描いたぼくの漫画①。
最初に、ぼくの過去の様々な犯罪について書きたい。
別にマリファナを吸ってアイスクリーム欠乏症にかかってコンビニで2時間どのハーヘンダッツにするか悩んだあげく非常に甘そうな犬用おやつを買ったとか、LSDを服用しながらディズニーの『ファンタジア』を観ているときに「ミッキーがいまここにいるということはディズニーランドには今ミッキーはいないはずだ。ミッキーは一人しかいないのだから」と悟ってパニックになったとか、そういう愉快な話ではない。

ドラッグに関して抵抗がある人でも、著作権に関しては寛容。というか、ドラッグをやったことがある人は少ないけど、著作権を犯したことがない人はほとんどいない。マリファナはずいぶん許容されてきたみたいだけども。

だって、つい最近法改正されるまでは、記念撮影でたまたま後ろに写っていた映画のポスターだって違法だったわけだし、踊ってみたや歌ってみたの動画だって違法だし、そういった動画を見ることだって違法なんだから。
それだけじゃない。マリファナやヘロインが犯罪だというのは全員がわかっていることだけど、著作権違反がどれほどの犯罪か認識している人は少ない。
法律に照らし合わせて考えてみると、著作権違反はけっこう重い。
大麻の所持は5年以下の懲役、栽培は7年以下の懲役。
LSDなど向精神薬は所持だと3年以下の懲役、覚醒剤やヘロインだって使用は10年以下。
著作権法はどうか。
10以下の懲役、または1,000万円以下の罰金。(またはその両方)
ちなみに著作権侵害によって得た利益のすべてに利子がついて返還しなければならない。
これだけ重い罪なんだ、ということがわかり、ぼくはがたがたと震えている。
なぜなら、ぼくは今まで、普通の人と同じように、著作権をバンバン侵害してきたからだ。10年も檻に閉じ込められるともしらずに。
そこで、ぼくが今まで犯してきた罪を考えていきたいと思う。
たとえば、ぼくは、有名な楽曲のカバーを、著作者に無断で使用してきた。

この動画は、著作者の七尾旅人さんからコメントをツイッター上でいただいた。

七尾さんからコメントをもらって有頂天なぼくらだが、しかしながら、もちろんぼくはこれで「シロ」になるわけじゃなく、felicityというレーベルに許可をもらわなくてはならない。なぜなら、きちんと確認はしていないけれど、『リトルメロディ』というアルバムには、「©Tavito Nanao」ではなく「©felicity」と表記してあるだろうからだ。
TPPの大きな争点のひとつになっている著作権の非親告罪化を絡めて考えると、ぼくらmacaroomは、有名になるにしたがって起訴される可能性が増える。著作権は、いまのところ、著作者本人が「いいよ」といえばそれまでだし、仮に「いいよ」とは言ってなくても、著作者自身が訴えを起こさなければ裁判にはならない。しかし非親告罪化するということは、ぼくらのYouTubeをたまたまみていた人が、警察に通報したりして、なんとなくブログが炎上したりすれば警察も「まあ一応やっとくか。違法は違法だし」というなし崩し的態度で裁判に持ち込まれる可能性が高くなる。著作者の意向に関係なく。
法治国家なので、当然ぼくはこれに従わなくてはならないのだけど、上のようなカバー曲は、完全に違法なのだ。だって、この動画を見てくれた人がぼくらのライブに来てくれたりしているわけだから、少なくとも商業的な利用だということができる。
ライブフライヤー用に描いたぼくの漫画②
ぼくが描いた漫画なんか違法もいいとこだ。
まだ紳士的なのは、チャールズ・シュルツという名前を白状している点だろう。しかし白状すれば許されるわけではないし、むしろ「確信犯じゃないか」といわれてしまう。
ぼくは小学生の頃、ホワイトデーに女子に洋書版の『ピーナッツ』をプレゼントするほどシュルツ作品というかスヌーピー作品に影響され続けてきたわけだが、そういうことは情状酌量の余地はあるかもしれない(ないだろう)。
しかし、ぼくの漫画が「すごく可愛い」とかいわれたりしても、それはシュルツの知的財産を乱用しているからに他ならず、仮にこの漫画がアメリカでメガヒットして、なおかつ比例関係的にシュルツの本が売れなくなっていけば裁判になるかもしれない。
ただ、アメリカは日本とちがってフェアユースという概念があるので、パロディには案外寛容的だし、パロディ作品に関してはあの悪名高いディズニーもしぶしぶ了承している。
著作権擁護派として代表格のアメリカ映画業協会(MPAA)がいてもなお、ハリウッド映画のパロディは普通に存在している。(いやもしかしたら、そういった映画はすべての著作者から許可をとっているだけなのかもしれないけど)

ぼくはとんでもない犯罪歴を持つわけだ。いや裁かれてはいないのでまだ犯罪とはいえないかもしれないけど、法を犯してきたという自覚はある。「知らなかった」ではすまされない。

ではなぜ、続けるのか。
だって、カバー曲にしたって、漫画のパロディにしたって、著作者の許可を得れば良いじゃないか。

んん、そんなに簡単なことじゃあない。
著作者の許可を得るのは結構大変だったりする。

ぼくも含めて多くの人は、大企業は著作権に対してシビアな態度で、必ず著作者の許可を得て製作したりしているもんだと考えている。
しかし実際はそうじゃない。

たとえばぼくの話でいうと、
NHKラジオでぼくらmacaroomの楽曲が放送されたが、事前になんの連絡もなかったし、その後も使用料などに関する話は一切ない。
もちろんぼくはNHKラジオに対して、怒るどころか、「勝手に使ってくれてありがとう」という気持ちでいっぱいだ。だって、NHKがぼくの連絡先を探したり、ぼくとメールでやりとりして数日経つ間に、パーソナリティの高橋源一郎さんが心変わりして、別の曲を流したくなってしまうかもしれない。それに、NHKのような大きなラジオで放送されることの名誉に比べたら、使用料なんかどうでも良い。
そして(話の主旨からはそれるけど)何よりぼくらは、作品の無断使用を制限しないことをアルバムに明記しているわけだし。(ラジオ放送当時は明記してはいなかったが)
さて、NHKのこうした素晴らしい行動は、違法であることにはかわりない。
ぼくはNHKラジオで放送されたことを友人に自慢しまくったのだが、多くの友人の反応は「すごいね! でも、NHKのようなちゃんとしたところでも、無断で曲を流したりするんだ」という感じだった。

著作者に許可をとることがどれほど難しいことか、ということは、NHKは非常によくわかっていると思う。

NHKは、過去に放送した78万タイトルを保存し、公開することを進めている(NHKアーカイブス)。
公開するためには、著作権や肖像権など、権利者に承諾を得なければならないのだけど、これが全然見つからないのだ。
どのくらい見つからないかというと、大河ドラマ『秀吉』では、57人の俳優が連絡不能になっている。俳優は楽曲でいうところの歌手なんかと一緒で、実演家ということで著作隣接権がある。普通はそういった確認事はドラマ制作の際に契約するのだけど、このように新たにアーカイブしたりするときは、新たに契約や確認しなければいけない。しかし、著作権などは親から子へ譲渡されたり、もしくは俳優が偽名で出演してたり、プロダクションを辞めてたりと、もう全然連絡先がわからないのだ。
そしてNHKアーカイブは専従チームを組んで6年間、著作者を探しまくった結果、
たったの1パーセントだけ、公開することができている。

NHKのドラマが特別に管理が悪いわけじゃない。いや、NHKの著作者管理は素晴らしいはずだ。だからこそこういった大規模なアーカイブをやっているのだから。

著作者のわからない作品は、出版したりネット公開することができない。
だからいつまでたっても作品は絶版のまま。人気のある作品だって出版できない。
それに、著作者が生きているか死んでいるかもわからない作品は、いつになったらパブリックドメインになるかもわからないのだ。
こういった作品を「孤児著作物」とか「みなしご作品」とかいったりする(Orphan Works)

現在、世の中の50パーセントの作品が孤児著作物だといわれている。
イギリスでは大英図書館で著作権期間中の可能性がある作品のうち43パーセント、ミュージアム所蔵の写真は90パーセント、アメリカでは学術資料の50パーセントが権利者不明状態らしい。

ぼくは中学生の頃から安部公房の狂ったファンだから、勅使河原宏が映画化した『燃えつきた地図』のDVDが欲しいのだけど、困ったことにAmazonではすごい値段になっている。
いや、これが権利者不明の問題と絡んでるのかどうかは、全く知らない。
ちなみに『砂の女』『他人の顔』は、ありがたいことに新時代の救世主であるYouTubeでおそらく違法にアップロードされたものを観ることができる。(当然無料で)

Three Reasons: The Man Without a Map from For Criterion Consideration on Vimeo.

消費者であると同時に、アーティストでもあるぼくはよく、
著作権がなくなってもわしは生きていけるんかいな
と自問自答することがある。

大抵は、第4回にも書いたように、売れていないうちは著作権使用料の恩恵をこれっぽっちもうけていないので、「今もたいしてかわらないんだし、売れたら売れたでテレビ出たりラジオ出たり、広告に使われたり、なんとかなるだろう」と、ずいぶん楽観的にことを済ましてきた。

とかく、芸術家というのは日本では蔑まれる存在だったし、ある意味そうであるべきなのかもしれない。

これは史実からはかけ離れているけど、黒澤明『乱』におけるピーター演じる狂阿弥のような存在が、理想の芸術家の姿だと思っている。これはシェイクスピア『リア王』における道化だけど、野村万作の指導もあり、伝統芸能に無頓着なぼくなんかは勝手に「これが本来の狂言の姿だ!」と思い込んでしまったわけだ。
猿楽がもともとジプシーのような魔術的芸能遊牧民族らによって生み出され、歌舞伎が出雲阿国を筆頭に性風俗産業と密接に絡んで語られるように、いや、もっというと、日本の芸能は大陸を横断して朝鮮半島から渡ってきたジプシーによるものだというとんでもない陰謀論的な説まであるくらいなのだ。
こうなってくると日本=ユダヤ同祖論のような非常にばかばかしくもワクワク愉快な感じになってくるのだけど。

こういった楽観的な性格のせいで、著作権がなくなったら、本当にどうやってお金を稼いでいくかなんて真剣に考えたこともなかったのだけど、そもそもこの連続ブログでは、そのへんのところ、つまりお金、おっきくいうと経済のことについて勉強していきたい、ということから始めたのだから、そういうことを考えていかなくてはならない。

結局、いくら著作権が概念的に「架空の権利」だといったところで、世の中はお金でまわっているのだから、いつまでたっても有意義にロビー活動ができるような大金持ちたちは納得してくれないだろう。
原発が必要か必要でないか、というのはぼくみたいな左翼ぎみなやつは道徳や倫理やイデオロギーのようなもので語りたがるけど、残念ながら、まともな大人は原発が与える経済の話をしなければ納得してくれないのだから。
つまり、いくらぼくのような左翼じみた若造が概念や精神やキモチの話をしたって、経済問題が解決されなくては机上の空論であって、弱者ゆえに都合の良い理想論をいっているのに他ならなくなってしまう。

著作権が完全に消えてしまったら、わしゃ一体どうなるのか、考えてみる。
ぼくが7月に出した、macaroomの『homephone TE』というアルバム。
この世界に著作権が全くなかったとしたら、どうなるだろう。
まず、あなたはタワーレコード渋谷店でこのCDを買う。そしてあなたは、このCDをどう使っても良い。
たとえば、このCDを勝手にmp3にしてネットで安く売ったりしても良い。
もしくはジャケットのデザインを変えてプレミア感を出して、高く売っても良い。
もしくは、他の様々なアーティストと混ぜ合わせにしてコンピを売っても良い。
映画のサントラに使っても良いし、その場合でもぼくから許可をとる必要はないし、ぼくにお金を払う必要なんか全くない。
あなたがやった商売のせいで、作者のぼくが売っているオリジナルのCDが全然売れなくなっても問題は無い。
ただ、タイトルや作者名を変えたり、その他の不正行為は盗作行為とみなされてしまうので、気をつけなくてはならない。著作権はないけど、詐欺罪で捕まったら大変だから。

つまり、作者であるぼくは、世界中のすべての人と、競争しなければならないということなのだが、しかしながら、完全に平等な競争ってわけでもない。作者であるぼくのほうが、ずいぶん優遇されているのだ。
作者の優遇は、先行優位性、という言葉で表現されるらしい。
これは著作権にも特許にもいえることだ。
イノベーターや作者は、まず最初にそのアイデアを思いついた人だから、それを市場に出すまではたった一人アイデアを独占していることになる。それによる優位性がいろいろある。
ぼくのCDを手に入れて、その後それをつかって一儲けをしようとする人は、ぼくよりずいぶん遅れて競争に参入することになる。
たとえばAmazonは、配達のスピードによって料金の差別化が行われている。三日くらい待てば配達料無料であっても、多くの人は、次の日に届く有料サービスの方を選ぶ。これはAmazonの先行優位性だ。
アーティストのアルバムは、ある一定の層のひとたちは、発売日にすぐさま欲しがるものだ。
E・フリントによると、一般小説の売り上げの80パーセントは出版三ヶ月後に発生している。だから、遅れて競争に参加してきた出版社が三ヶ月後に出版しても、あとの20パーセントを取り合うだけになってしまう。(いまはもっと初動の売り上げは下がっているらしいけど)
映画館では、公開から数週間〜一ヶ月の間に収益が集中する。もう数ヶ月待てばもっと安く他の映画館で上映されたり、もうすこし待てばTSUTAYAで借りれるのに。
TSUTAYAだって、新作と旧作の違いが値段で分けられている。
ユーザーは、とてもせっかちなのだ。すぐに、早く、まっさきに、それが欲しいのだ。

先行優位性のひとつの例として、補完物売り上げ、というのがある。
ぼくの曲がいくら誰かがアップロードした無料のmp3でダウンロードされつづけても、ライブでの収益は下がらない、というものだ。
ようするに、ある市場では全く価値がなくても、別の市場で価値があったりするのだ。
たとえば、CDがまったく売れなくても、ライブでボーカルのemaruがサインを書いて手売りすれば売れたりだとか。
たとえ著作権がなかったとしても、サインは競争相手には真似できない。明らかな詐欺だから。

ロサンゼルスのゲッティ美術館の例を引用。

ゲッティ美術館は桁外れの金額で、有名な芸術品のとてもよくできた贋作を買ったのだった。贋作は出来が良く、美術館の専門家はそれらがオリジナルだと信じていた。しかしちょっとした証拠の出現や、洗練された科学的検査によって、これらの作品が贋作であることが証明された。当然ながら機能的な面では、何一つ作品に変わりはなかったーー見た目には、それらの絵画はまったく同じに見える。だが作品がオリジナルではないとはっきり証明されて、市場価値は桁違いに下落した。同じように、さまざまなファッション製品の公認のコピー(たいていはブランドラベルの有無で見分けられる)が、オリジナルよりもはるかに安価に売られる。だから芸術品は現在のところ著作権で保護されているにしてもーーその必要性があると主張するのは困難だ。(ボルドリン&レヴァイン)

著作権がなくなったところで、消費者の意識の中で、作者はある程度の保護というか優遇は受けている。
でもまあ、時には、作者であっても、競争には負けることがある。

一番困ったのは、作者が圧倒的に貧乏だったときだ。
そう、我々のように。
芸術格差というタイトルをつけているし、わかると思うけど、著作権が格差を広げているのだが、では著作権がなかった場合の格差はどうか。

たとえば、ぼくが、新しい音楽アルバムを作ったとする。しかしお金がないので、しぶしぶダウンロード販売をする。楽曲制作にとても時間がかかったので、その分を回収するために、そこそこの値段、たとえばアルバム1枚2,500円とかで売る。
そして、それをダウンロードした大手音楽レーベルが、勝手にプレスしてCDを販売する。豪華な写真、有名デザイナーによるデザインなどつけて。
大手音楽レーベルは、1タイトルのCDを1,000枚プレスすることなんか大した負担じゃない。

結果的に、作者であるぼくは、競争に負けてしまうかもしれない。

まあ、さっきも書いたような補完物売り上げを考えると、必ずしも損することはないし、大手音楽レーベルが豪華なCDを売ってくれたおかげでライブにもものすごい数のお客さんがひしめき合うかもしれないので、大助かりなのだけど、まあそういうことは置いといて、ぼくは大損したことにしとこう。

この場合、ぼくが大損したとして、どうするべきか。

この場合は、確か第2回目の記事で書いたような気がするが、最初から大手音楽レーベルに売ればいいだけの話だ。
もし、そこで断られたとしたら、ダウンロード販売すればいい。ダウンロード販売をして、そのあとでレーベルが真似をするということは、その時点でかなり売り上げがあるということなのだ。だって、売れていなかったら真似をする必要がないのだから。

大ヒット曲だと確信してから海賊行為をはたらいて、かわいそうなポップスターを破滅させてみればいい! ところで「ヒット」とは、この場合「すでに百万部売り上げた」という意味だろう。現実の業界で、すでに勝者が勝利をおさめてから真似しにかかって、かれらがすでに莫大な利益をあげ、地位を築いてゆるがないものにする時間を充分に与え、そのあとで競争に乗り出してみるといいーー如才ない模倣屋に残された市場は、その時点ではほとんどなくなっているはずだ。(ボルドリン&レヴァイン)

特許の場合にも、貧乏な発明家は大企業に真似されて大損する可能性はある。発明にはけっこうお金がかかる。
セグウェイを発明したカーメン氏の例を引用したい。

カーメン氏は自動車会社の一つ(フォードとか)を訪れて、無料で青写真を見せてやればよかったのだ。そして競合他社には秘密にしておくとの約束を、フォード自動車の有力株主になることを条件として結ぶわけだ。これで経済学者のいう誘因両立メカニズム、専門家のいうウィン・ウィンの状況の出来上がりである。フォード社は先行優位性を享受できるため、この秘密には相当な価値がある。カーメン氏が求めるものが発明の価値を下回るかぎり、フォード社は喜んで支払うだろう。カーメン氏が秘密を競合他社に明かせば、独占利益が失われるからだ。一方でフォード社は、株式を保有するカーメン氏なら他社に秘密を漏らさないとわかるーー株の価値が下がるからだ。(ボルドリン&レヴァイン)

まあ、でも、特許の場合もこんなややこしいことをしなくてもあまり心配はいらない。
特許にしても、著作権にしても、イノベーターや作者というのは、その人自体は取り替え不可能だ。
医薬品関係の発明をした人がいるとして、その専門知識は容易に他の人には真似できない。
たとえば、論争の的になった小保方さんのSTAP細胞。彼女が200回成功したというものが、他の誰にも真似できなかった。ハーバードですら、小保方論文を参考にしてずいぶん時間がかかったようだ。
だから、それが市場で競争になったとして、イノベーターは専門家として、もしくは指導者とか、アドバイザーとして、引っ張りだこになるだろう。
作者だって、作品が出回りさえすれば、サイン会や講演会、ライブやテレビ出演、ラジオ、CM、なんでもござれよ。うん、なんでもござれなのよ。

真似するだけ真似したら良いし、ぼくにとってはその方がありがたい。

最後に、キプリングの”The Mary Gloster”から引用。

連中はありったけ真似しやがったが、おれの頭は真似できない

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